リトル・ミュージカルを立ち上げるまで

色々な人の協力のもと、いまリトル・ミュージカルは存在しています。そして、さらにまた協力の輪を広げていこうとしています。そんなとき。

「なんでリトル・ミュージカルをはじめたの?」「どうしてそこまでして続けるのか?」それを聞かれることも増えました。ここにまとめておきたいなと思います。

創設者で代表の石垣の経緯を話すことに他ならず、大変おこがましいながら、経緯と背景をまとめさせていただきました。

 

創作好きな幼少期、恩師たちとの出会い

そのクオリティは低くて、よく笑い話に出てくるのですが、幼少期から創作好きでした。3歳児教室の発表会で、替え歌を披露して驚かれ(しかも直前に演目変更。笑)小学生時には、学習発表会での劇の脚本を書き、絵本を創作していました。また、市民活動としての舞台活動に没頭する中で、恩師に出会い、表現することに魅せられていきます。なかでも、リトル・ミュージカルの原体験となっているのが、地元の非営利合唱団「四日市少年少女合唱団」です。小学校1年生から所属し、高校1年生まで10年間活動しました。とにかく歌の先生の指導が素晴らしくて、演出の先生が創る舞台が面白くて魅せられ、当たり前のようにある、上手い下手を感じて凹むことがあったり、やりたい役にはなれないのだと痛感したり、色々なことを学ばせていただいた場所です。

「生み出すこと」は、仲間がいてこそ。

中学校では新体操部で振付し、高校の演劇部では助っ人として出演し、演出に一部口を出したり好き勝手していました。その時は、やりたいことをただやっていただけで、中学生時代は、新体操部にのめり込み、顧問の先生も新体操の経験者でなかったので、なんとか自分たちで方法を見いださなくてはいけませんでした。だから楽しかったのだと思います。わたしは、ロシアやウクライナ、ブルガリアの選手たちに憧れ、テープがすり切れるほど、世界選手権やオリンピックのビデオを繰り返しみました。そのうち、そんなことができる気がしてきて(笑)臨時できてくれたコーチが創る振付に納得いってなかくて、世界選手権やオリンピックの選手の振付トレンドを分析して振付を考えるようになっていました。選手達との差に泣くことになるのですが。高校の演劇を助っ人したときは、舞台にはこういう要素があった方がいいなんてナマイキなことを考えていました。これは、合唱団時代の演出の先生の影響であり、すべては、真似るということから始まっていました。

名古屋大学在学時は、入学後すぐにフィギュアスケート部に入部し、すぐに骨折!どうしようと悩んでいたときに、高校時代の友人が京都でアカペラを楽しんでいて、そのライブを観に行って 、心に火が灯りました。名古屋に戻ってすぐさまアカペラサークルを探しましたが、なくて撃沈。「しょうがない、創るしかない」と思い、半年の準備期間を経て、創設。時にテレビ番組の1コーナーで「ハモネプ」というアカペラ企画が始まり、ブームに。予期せずに大きな組織となり、後輩たちが大活躍。現役生、ちょっとでも関わった卒業生を入れたら1000名以上いるのではないでしょうか。わたしが必死に行ったのは、歌の練習ではなく(笑)、ただそこにいるみんなを大切にしたこと。本当に素敵なメンバーだったのです。ひとりひとりに手紙を書いたり、それぞれの才能・得意を観察して、できるだけ辞めないように! 楽しいように!ここで、それぞれにポジションや役割を作っていくことが素敵な組織であり、居心地の良い場所なんだと学ばせてもらいました。

大学後半は、自らの憧れであったプロダンスカンパニーに所属して、そちらで食べていこうと大それたことを思うようになります。文化的な活動が場所にどういう影響を与えるのかにとても興味があり、卒業論文テーマは「路上ミュージシャンの地理学」。路上ミュージシャンへのフィールドワークを実施し、グローバル・ドメスティック・ローカルな空間での音楽がつくる場を論じ、場に対して考察するにいたりました。ほんとうにわがままな生き方をしているものです。

悩みぬいたサラリーマン生活で得た大きなもの

大学卒業後は、なんにもできないダンサー時代を経て、挫折を経験。広告制作のアシスタントプロデューサー(主に財閥系ディベロッパーの高級マンションの広告・販売ツールの総合プロデュース・制作)、モバイルコンテンツプロデューサー(主に芸能・出版・ゲーム各分野でのモバイルコンテンツプロデュース・制作)、ビジネスコンサルタント(主に通信・IT業界での業務支援)を経験しました。この転職歴からも、ものすごく悩んでいたのが分かるかと思います(笑)週末起業していたヨガやフィットネス業界にて、個人事業主の相談を受けることが多くなったことから、フィットネス業界の専門家のエージェント兼制作プロダクションを設立しました。ここから、自分の居場所を探そうと思っていました。しかしながら、経営をすることと、居場所を探すことは違うものでした。勤務時代から独立後の委託先を含めると計11社で業務経験の中で、様々な人間模様と組織を観察してきたことは、いまは財産になっています。

多忙であったサラリーマン生活では、常に身体が疲れ、ダンサー時代よりも8kgくらい体重も増えていました。そこで流行に便乗してヨガをはじめ、2006年全米ヨガアライアンス200時間トレーニング終了、2007年ジャイロキネシス®認定トレーナーサーティフィケートを取得、他ピラティスや様々なボディワークを体験しては勉強していました。ただ大好きなことなのに、これだけを仕事にするというのは想像できなかったのです。だから、週末自宅にて、ヨガとジャイロキネシス®の指導をはじめました。生徒には、元宝塚舞台女優、OL、企画や編集者、個人事業主など様々なワークスタイルを持つ女性たち、仕事以外でできた友人関係はとてもありがたく、数人でのアットホームなクラスでは、個人が持つ秘めた思いなどを共有できる場であり、人生の岐路に立った際にお互いに支えられるようなコミュニティのありがたみに気付くことができました。

こうして活動する中で「合わない仕事をすることで挫折する人」「能力はあるのに発揮できない人」が多くいることに気付き、精神的な病を発症する人も含め、様々な人生上の悩みに触れ、「得意や才能を活かして自分の人生を生きる」ことが、理想的な社会であると考えるようになりました。何より、わたし自身が、何が役割なのかが分からず、悶々とした20代を過ごしました。どこにいても、なんだか違う気がする、どうしたらいいのだろうか?と。他人から見れば小さなことでも、わたしにとっては、ものすごくしんどかった数年間でした。それでも、幼少期・学童期に10年間継続して舞台に立ち、大学時代に仲間と音楽をしてきたことで、自己肯定感をつけていたことがきっと自分を救ってくれていたと思います。仲間が救ってくれたこともたくさんありました。

こどもたちが教えてくれた自分の役割

多くの現場での経験を有効に使って、自分が自己肯定感を養った原点である音楽を楽しみ舞台で表現する場を、これからの社会を担うこどもたちと共有したいという思いは20代の頃からありました。いくつか企画書もあります。でも、その時々、タイミングが違ったのでしょう。転機が訪れたのは、独立して4年目。色々な仕事を経験しながらも、何がしたいのかまた見えなくなっていた時です。「本当にやりたいことをやった方がいい。こどものミュージカル、合ってると思うよ」とある人に背中を押されました。

2013年、ダンサー時代の友人との再会も手伝って、こどもたちによるこどもたちのためのミュージカル劇団活動「リトル・ミュージカル」を立ち上げました。31歳のとき。いま思えば、20代の頃の自分では、到底できなかっただろうと思います。

現在3年目の2015年。この2年間でのこどもたちの変化は凄まじく、保護者たちから「別人」のように成長したと言われるこどもや、自らの才能を十分に発揮し始めるこどもを目の当たりにしています。わたしは、「才能を見つけてひとりひとりを認めること」「大きな舞台に立ち自己肯定感を強くすること」に対して並々ならぬ情熱をもっており、日本一おせっかいなおばさん(笑)だと自負しています。当初はここから事業利益を得るつもりもなく、純粋にボランティアワークとして運営していたのですが、団員が増え、本質的な意味で、ひとりひとりに本当に向き合うため、そして世界を幸せにするような作品を創るためには、事業としてまわしていかねばならない、そしてそれは、何もわたしだけの思いではないはず、そう思うことができました。そして、誰もが本当に楽しめる活動であるという根っこの部分を変えずに、サステナブルなものにしていく決意をし、全国のこどもたちに会いたい、そういう野望を持っています。

作品つくりへのこだわりについては、こちら